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人気プロの特集

ホセ・マリア・オラサバル

ホセ・マリア・オラサバル(Jose Maria Olazabal, 1966年2月5日生まれ)

ホセ・マリア・オラサバルは、スペイン出身、1985年にプロ入りを果たす。
翌年1986年には「エベル・ヨーロピアン・マスターズ・スイス・オープン」で欧州・ゴルフツアーで初優勝する。
1987年に米国代表チームと欧州選抜チームによる団体戦「ライダーカップ」で、ヨーロッパ選抜代表選手に初選出される。
米国PGAツアーでの初優勝は、1990年「NECワールドシリーズ・オブ・ゴルフ」である。
オラサバルが世界的に注目されたのは、1994年の「マスターズ」であった。

このメジャー屈指の大会で初優勝を飾り、スペイン人のゴルファーとしては、セベ・バレステロス(1980年&1983年の2度優勝)以来のマスターズ優勝者となったのである。
また同年1994年は、「NECワールドシリーズ・オブ・ゴルフ」でも4年ぶり2度目の優勝を飾っている。
しかし残念なことに1995年に足の病気を患ってしまい成績は低迷することになる。

ちなみに病名は、「リウマチ性多発関節炎」であった。
闘病期間中は歩行さえも困難なほどの状態になり、ほとんど寝たきり同然の生活になってしまった。
復活は、1997年3月の「デュバイ・デザート・クラシック」(アラブ首長国連邦の首都・ドバイ開催の大会)。
復活優勝は、同年同月3月23日に開催された「ツレスパナ・マスターズ・オープン・ド・カナリア」だった。また1999年の「マスターズ」では、5年ぶり2度目の優勝を飾った。これまで1994年と1999年の2度、「マスターズ」で優勝。欧州・ゴルフツアーで通算21勝、米国PGAツアーで「マスターズ」を含む6勝。
日本では、1989年と1990年の「三井住友VISA太平洋マスターズ」で2勝している。


ペイン・スチュワート

ペイン・スチュワート(Payne Stewart, 1957年1月30日生まれ)

ペイン・スチュワートは米国・ミズーリ州出身、4歳の頃からゴルフを始めた。 このペイン・スチュアートの父親は、ミズーリ州のアマチュア選手権で優勝経験があり、その父親の指導のもとでゴルフを始めたのである。

1979年にプロ入りは1979年、しかし米国PGAツアーのシード権獲得はならなかった。
そのため2年間「アジアン・ツアー」を回る。
そこで2勝を挙げ、1982年から米国PGAツアーに参戦することができたのである。

同年1982年の「クワッド・シティ・クラシック」でツアー初優勝を果たす。
この優勝の7年後1989年に、「全米プロゴルフ選手権」でメジャー大会初優勝を達成する。
また1991年「全米オープン」でも初優勝を果たし、メジャー大会2冠王となった。
しかしその後数年間は低迷することになる。

再び世界的に注目さたのは、1999年の「全米オープン」で8年ぶり2度目の優勝を飾ったときである。
この大会では、フィル・ミケルソンと1打差、3位タイにはタイガー・ウッズとビジェイ・シンが入るという、「全米オープン」史上稀に見る大激戦を制しての優勝だったのである。

また同年9月には1993年以来3回ぶりのライダーカップにも米国代表で出場することになるのだが会場に向かう途中で、スチュワートは飛行機事故に遭い、「全米オープン」優勝からわずか4ヶ月後に、42歳で急逝した。
PGAツアー通算11勝、国際試合で通算合計7勝を記録している。
ペイン・スチュワートはいつも帽子と半ズボンをまとい、誰からも見分けがつく風貌とスタイルの持ち主であった。
また愛国心が強いことでも知られゴルフウェアに米国国旗の星条旗をあしらうことも多かった。
ペイン・スチュワートは悲運の事故死から2年後の2001年に世界ゴルフ殿堂入りを果たした。

今田 竜二

今田 竜二(いまだ りゅうじ、1976年10月19日生まれ)


今田竜二は広島県三原市出身、7歳の頃からゴルフを始めた。
14歳になった時に、単身で日本を旅立ち、米国フロリダ州タンパでゴルフの腕を磨くことを決意。
彼のその決意は渡米後直ぐに身を結び15歳でのジュニア・トーナメントで初優勝。

「ロレックス・ジュニア年間最優秀選手賞」を受賞。
全米アマチュアランキングで、タイガー・ウッズに次ぐ2位に輝いたこともあった。
その後、ジョージア大学を2年で中退した後、1999年にプロ入りを果たす。
米国PGAツアーの下部組織、ネーションワイド・ツアー(当時の名称は「バイドットコム・ツアー」に参戦を開始する。
同年「バージニア・ビーチ・オープン」で早くも初優勝を達成。
しかしその後低迷が続き、レギュラー・ツアーの「クオリファイイング・スクール」の予選通過などに失敗。ようやく復活したのは、2004年ネーションワイド・ツアーの「ミシュラン選手権」(ラスベガス開催)での優勝だった。
この優勝で賞金ランキング3位。
2軍からレギュラー・ツアーへの昇格を果たしたのである。
ちなみに昇格条件は年間賞金ランキング「15位以内」である。
そして2005年度から米国PGAレギュラー・ツアーのシード権を獲得。
初めてPGAツアーのメンバーとなることができたのである。今田は、日本人ゴルファーとしては異色の道のりで米国PGAツアー参戦を果たした努力の人である。
2005年「ブーズアレン・クラシック」の5位入賞。また「全米オープンゴルフ」では15位の成績を残す。
その結果、年間賞金ランキングで「121位」になり、2006年は、シード選手として、米国PGAツアーにフル参戦している。
ちなみに6月に開催された「全米オープンゴルフ」で12位と奮闘、前年に続き好成績を記録した。

ジョン・デーリー

ジョン・デーリー(John Daly, 1966年4月28日生まれ)

ジョン・デーリーは、米国・カリフォルニア州カーマイケル出身で、4歳からゴルフを始める。
身長180cm超、体重も100kg超の巨体から繰り出す豪快なドライバー・ショットが魅力のゴルファーである。
デーリーは、1987年にプロ入りを果たしたが直ぐには、PGAレギュラーツアーには参戦できず、1991年になってようやく米国PGAツアーに参戦できた。
だが、同年いきなり「全米プロゴルフ選手権」で初優勝を達成しゴルフ界の注目を一気には集めることとなった。
優勝スコアは、4日間通算 12 アンダーパー(-12, 276ストローク)だった。
その後は、翌年1992年の「BCオープン」、1994年の「ベルサウス・クラシック」で優勝。
そして、またデーリーが世界的に注目されたのは、1995年「全英オープン」だった。名門のセント・アンドリュースにあるR&Aゴルフクラブで、4日間通算 6 アンダーパー(-6, 282ストローク)で、コスタンティノ・ロッカ(イタリア)とのプレーオフを制して優勝したのである。
ちなみに30歳の誕生日を迎える前にメジャー2冠(以上)を獲得した4人目の選手という記録も作ったのである。
だが、その後は、私生活で結婚と離婚を繰り返したり(現在の妻は4人目)、アルコール依存症を患うなどして、ゴルフに集中できないスランプ状態が長期間続くことになる。
このどん底状態を脱したのは、2004年2月の「ビュイック招待選手権」で優勝9年ぶりのツアー5勝目を挙げたことである。

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